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重量挙げ・三宅宏実の心身を狂わせた魔物

 五輪は何が起こるかわからない。日本人メダル第1号を期待された女子重量挙げの第一人者、48kg級の三宅宏実(アセット・マネジャーズ)が実力を出し切れないまま無念の6位にとどまり、悔し涙でほおを濡らした。


 自己記録のスナッチ81kg、ジャーク110kgを更新し、最低でも合計で197kgに伸ばせばメダル圏内に入る――68年メキシコ五輪の重量挙げフェザー級銅メダリストの父親・義行コーチと描いてきた青写真は、苦手としているスナッチでもろくも崩れさった。1回目の試技で80kgを挙げて波に乗るかと思われたが、自己新を狙った82kgを続けて失敗。得意としていたはずのジャークも最初の105kgをかろうじて挙げたが、もはや110kgをクリアする力は残っていなかった。
「こんな低い記録は出したことがない」
 合計185kgという低調な記録が信じられない。青写真通りなら合計196kgの台湾の陳をかわして銅メダルを獲得していただけに、時間とともに余計に悔しさが募ってくる。三宅を襲った異変は競技開始2時間前、現地時間午前8時から行われた計量で明らかになった。前日から1kg近くも体重が激減。重量挙げはわずかの体重の変化が記録に大きな影響を及ぼす非常にデリケートな競技だ。義行コーチは「あれ(体重減)がこたえてしまった」と表情をしかめ、三宅自身も「想定よりも落ちすぎて、力が左右されてしまった」と必死に声を絞り出した。


 初出場だった4年前のアテネ五輪では、大会直前で代表に決まったこともあり、短期間で5kg近い減量を強いられた挙げ句に9位と不本意な結果に終わった。それを苦い教訓として、アテネ以後の4年間、スムーズに減量できるように体重は常に49kg前後をキープ。18歳から22歳までの多感な時期を重量挙げ一色に染め、法政大学時代から合コンなども一切封印。「アテネは北京のための準備」と自らに言い聞かせながら、父との二人三脚で2008年8月9日の表彰台だけを目指して努力を積み重ねてきた。
 しかし、約1か月前、7月上旬にはどん底を味わった。プレッシャーからかテンションが一気に下がり、練習ではバーベルをまったく持ち上げられなくなった。自ら話すことも、話しかけられることも拒絶し、気がつけば涙ばかりが溢れてくる。「暗黒の世界に入り込んでいた」と三宅本人が振り返るスランプからは何とか抜け出せものの、競技直前には予期せぬアクシデントが待っていた。「8年間かけてやってきて結果はこれ。4年に一回のピークを合わせるのは難しい」と義行さんは娘の心身を蝕み、微妙な感覚を狂わせた五輪に棲む魔物に唇をかみしめた。
 テレビで観たシドニー五輪の開会式に魅せられ、母親の育代さんの猛反対を押し切り、夢をピアニストから父娘二代の五輪重量上げメダリストに変えて8年。三宅自身は26、27歳で心技体が最も充実すると考え、4年後のロンドン五輪までを視野に入れている。この日は今後については明言を避けたが、「今までやってきた中で今日が一番悔しい」と不完全燃焼の思いも口にした。わずか1か月でどん底からはい上がって6位に入賞したことは価値があるとも言えるが、体の中に流れるメダリストの血がこのままで終わることを許さない。15日に帰国する予定の三宅の胸中には、時間とともにリベンジの炎が燃え盛っているはずだ。                        (文・藤江直人)


 
 


2008年8月 9日 23:27|記事URLコメント(0)トラックバック(0)

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