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ヒーロー出現を生かせぬ古い組織 フェンシング考 田中夕子
太田雄貴の動くところに人が動く。
1年前の日本選手権では、取材者の数はわずか2名。試合後のインタビューも、「会場は寒いから」と太田自らが先導し、関係者控え室で行った。まるでアルバイトをするための面接のように、中央に太田が座り、両脇に2人の取材者。時間制限はなく、20分もの時間が2人の取材者に費やされた。
あれから1年。2人だけ取材者は50人を超す人で膨れた。
日本フェンシング界にとって歴史的快挙である銀メダルを獲得し、太田の周囲は一変した。帰国後初の大会となった国体から、多くのメディアが訪れ、今回の全日本でも取材規制が敷かれた。通常の公式戦とは異なる国体ルール(通常は15点マッチだが、国体では5点マッチ)とはいえ、太田に勝った選手を「銀メダリストを敗った感想は?」と取材記者が取り囲む。優勝した斉藤有選手は、そういう公式の場で、「お名前は?」と失礼な質問をされても、怒りもせずに「斉藤です」と、名前を述べた。そして、その光景を「お前、いいなぁ」と、また別の選手が遠巻きに見つめていた。
確かに、メディアが増えればそれだけ世間への露出も増える。
マイナー競技から、少しでもメジャーに近づきたい。その一心で、太田自身もオリンピック後、休むことなくさまざまなバラエティ番組への出演や、イベント出演などを断らずにこなし続けた。フェンシング界史上初の銀メダル効果は絶大なものである。
だが、それは、本当にフェンシング界全体に向けられたものなのか。
フェンシングブームではなく、単なる太田ブームではないのか。
北京五輪フルーレの代表選手は、太田と千田健太の2人だった。千田のは幻のモスクワオリンピック代表選手。父の分も、息子が悲願達成をーと、大会前には千田にも太田と同様に多くのメディアが集まった。だが、太田は銀メダル、千田は、トーナメント戦の初戦は突破したものの優勝したクライブリンク(ドイツ)に敗れた。
帰国後、就職先が未定だった太田には、オファーが30数社にも及んだという。「高校時代からサポートしてくれた」と太田は森永製菓への入社を決め、涙を流しながら周囲への感謝を口にし、その姿を無数のフラッシュが照らした。
対して中央大5年の千田はと言えば、就職オファーはゼロだった。来春に卒業予定を控えた現在も卒業論文の作成に取り掛かり、日本選手権に向けた満足な練習を積むことすらできずにいた。
ここで結果を残せばと就職につながるかもしれないと、この日本選手権に最後の望みをかけていたが、2回戦敗退。太田と対戦するまでにも至らず、静かに2008年最後の大会を終えた。
「せっかくオリンピックに出ても何も変わらず、中途半端なままでした」
五輪での敗者の現実は、何も変わらないという事実である。
千田だけでなく、オリンピックに出場しながらも、現在は練習相手のいない地方での練習を余儀なくされる選手も多くいる。太田の周りは確かに変わった。だが、フェンシング界や選手を取り巻く状況はオリンピック前と何ら変化はない。
太田が成し遂げたのは、確かに偉大な快挙である。だが、そのヒーローの出現をうまく利用したフェンシング界全体の底上げや発展につなげる作業が必要なのだ。それを考え行動に移すのは太田というヒーローではなく、組織でなければならないはずだ。
第1回のアテネオリンピック以後、フェンシング競技はメダル獲得まで112年を擁した。
ロンドンまでは、たった4年しかない。
太田の試合翌日、会場ではフルーレ団体戦と、エペの個人戦が行われていた。
メディアの数は3人。
1年前と同じだった。
2008年12月17日 18:47|記事URL|コメント(0)|トラックバック(0)
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