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歓喜のプロ初勝利。澤村拓一と甲子園球場とを結ぶ縁  by 藤江直人

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※発売中の『論スポ 2011年プロ野球開幕特集号』では、読売ジャイアンツ・澤村拓一投手の高校・大学時代を追ったルーツ探訪を掲載しています。


 プロ入り初勝利をマークしたスタジアムが阪神甲子園球場。自身のプロフィールの中に未来永劫にわたって刻まれる項目には、感無量の思いがあるのではないだろうか。
 読売ジャイアンツのルーキー右腕、澤村拓一投手が敵地で行われた21日の阪神タイガース戦に先発。7回を1失点に抑える粘投で、2度目の登板で念願の1勝目をつかみ取った。
 初先発だった15日の広島東洋カープ戦ではゼロだったフォアボールが二回までに2つ。初回には二死満塁のピンチも招くなど、決して褒められる立ち上がりではなかったが、試合中に修正できる新人らしからぬ適応能力も披露。ウイニングボールを手に満開の笑顔を輝かせた。


 高校球児ならば誰もが憧れる聖地・甲子園球場。栃木県の名門・佐野日大高校で白球を追いかける青春時代を送った澤村も、もちろんその一人だった。
 残念ながら、3年間を通じて全国大会出場の夢はかなわなかった。しかも、最後の夏で与えられた背番号は9。チームは決勝戦まで駒を進めるものの、文星芸大付属高に1対7と完敗している。そうした過去が「甲子園球場」に対するコメントを素っ気ないものにさせる。
「自分はピッチャーじゃなかったので。どの球場も同じですから」
 もっとも、澤村が口にした「ピッチャーじゃない」というコメントは事実とは異なる。


 2004年春。栃木東洋中学から入学してきた無名の少年を見た、佐野日大高の松本弘司監督は「この子が本当のエースになればまた甲子園で勝てるかもしれない」と感じたという。
 遠投で軽く120メートルを記録する鉄砲肩。澤村の潜在能力はずば抜けていた。もっとも、入学当時のサイズは身長こそ現在の1メートル84とほとんど変わらないものの、体重は70キロそこそこ。松本監督をして「まるで案山子のようで、ひょろひょろとして不安定だった」と言わしめる投球フォームから繰り出されるストレートは130キロ台が精いっぱい。しかも、力んで投げるから決まって高目に浮き、ライバル校の強打線の餌食になっていた。


 現在も指揮を執る松本監督は、当時をこのように振り返る。
「足腰が安定しないから、なかなか腕を強く振ることもできない。それでも、むきになってストレートばかり投げる。もっと下半身を鍛えないとダメだよ、と何度言ったことか」
 指揮官のアドバイスを受けて、澤村はとにかく走った。走りまくった。1年生の秋には学校に敷地内にある野球部寮に入寮。24時間を野球漬けにできる日々が始まったある日のこと。専用グラウンドを施錠し、午後9時過ぎに学校を後にしようとした松本監督は、自身がハンドルを駆る乗用車のライトが闇の中に映し出した白い影に何度も驚かされる。

 
 足尾山系の麓にある佐野日大高の周囲は、夜になれば人や車の往来はほとんどなくなる。
 こんな時間に一体誰だ。松本監督が驚いて白い影を凝視すると、正規の練習時間以外にも自らにランニングを課していた澤村が、滝のような汗を滴らせながら走っていた。
「それが雨だろうと何だろうと毎晩ですから。またに走る子はいますけど、当然のように毎晩は続かない。何事もやりすぎはよくないよ、と何度か言いましたけど、これだと本人が決めたら納得するまでやめない。朝練は設けていませんでしたけど、もちろん澤村は毎朝走っていました。頑固というか何と言うか。今どき珍しい子だと思いましたよ」


 しかし、最後の夏を前に澤村は退寮を願い出る。室内練習場や筋トレルームも完備した恵まれた環境。栃木市内の自宅から通うとなれば、JR両毛線や自転車などを使用する分、野球に対する時間が削られる。訝しがった松本監督は、その理由を聞いて今度は驚かされる。
「もっと練習がしたいので寮を出たい、と言うんです。自分のペースで、自分のメニューを消化したかったんでしょうね。寮だと掃除などの当番もあって時間を割かれるし、消灯時間も厳守しないといけない。反対しましたけど、最後は私の方が折れてしまいました(笑)」
 春の栃木県大会で澤村は背番号1を託され、チームをベスト8に導いている。


 視界にとらえたはずの甲子園への道は、夏の県大会予選が始まる直前に暗転する。
 澤村の左足首に走った激痛。あまりに自分自身を追い込みすぎた代償だったのか。診断の結果は疲労骨折。ほぼ手中にしていたエースナンバーをあきらめざるを得なかった。
 緒戦だった小山南高との2回戦こそ打棒を生かして「5番・ライト」で出場するが、やはり左足が万全の状態ではなかったのだろう。3回戦以降はベンチでの野次将軍に徹し、出場記録のないまま高校野球に別れを告げた。これが「ピッチャーじゃなかった」ことの真相だ。
 胸に渦巻く不完全燃焼の思い。澤村は大学への進学を決意する。

  
 文星芸大付属高との決勝戦から11日後の2006年8月6日。澤村は中央大学のセレクションに合格を果たす。くしくも夏の甲子園大会が開幕した日であり、その日の第2試合では、まだ青いハンカチが注目される前の斎藤佑樹を擁する早稲田実業が快勝していた。
 系列の日本大学を選ぶ道もあったが、澤村は佐野日大高のOBで、前年のドラフト4位で中央大からジャイアンツに入団したサブマリン会田有志の存在に刺激を受けていた。
「高校時代の実績がないわけだから、大学に行っても通用しないのではないか」
 反対する父親の伸一さんに対して、澤村は頑なに首を縦には振らなかったという。


「後になって後悔しないように、受けるだけ受けてみなさい」
 最後は母親の和子さんの言葉が、小学生時代から東京ドームに足繁く通う巨人ファンだった澤村の決意を「とことん自分自身を追い込んでやる」とさらに後押しする。
 遊ぶ暇を惜しみ、徹底的なウエイトトレーニングで現在のロケットの発射台ような下半身を作り上げた大学時代。体重は90キロ台となり、神宮球場に観戦に訪れた松本監督を「まるで別人だ」と絶句させている。その土台となった高校時代のランニング三昧を、中央大を率いる高橋善正監督は厳しい言葉の中にも愛情を込めた、独特の言い回しで評価している。
「野球で得られなかった満足を、過酷な練習を課すことで得ていたんだろうな」


 はるかなる聖地を目指し、愚直に、黙々と積み重ねてきた努力は決して無駄ではなかった。リリーフ陣が失点し、白星がスルリと逃げていったカープ戦から中5日。巡ってきた阪神甲子園球場でつかんだプロでの第一歩に、不思議な縁を感じずにはいられない。
「素晴らしいカードの中、彼のプロ野球人生が素晴らしい場所で1勝目を飾れたのには意義がある」
 澤村を称える原辰徳監督の言葉にも自然と力がこもる。タイガース戦のストレートのMAXは154キロ。前評判通りの剛腕をうならせる一方で、2試合で防御率0.66と抜群の安定感をも見せる。叩き上げの雑草ルーキーの活躍が、ますます楽しみになってきた。
 

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2011年4月23日 03:27|記事URLコメント(0)トラックバック(0)

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