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大阪燃ゆ!ダービーの明暗を分けたセレッソの何苦楚魂 by 藤江直人

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■ACL決勝トーナメント1回戦
ガンバ大阪[E組1位] 0‐1(前半0‐0) セレッソ大阪[G組2位]
[5月24日午後7時キックオフ@万博競技場]
※セレッソ大阪がチーム史上初のベスト8進出
ライバルへの「何苦楚魂」が歴史的勝利を手繰り寄せた。両チームともに無得点で迎え、延長戦突入が脳裏をちらつき始めた後半43分だった。ガンバ大阪のクリアボールをペナルティーエリアのすぐ外でセレッソ大阪のMFマルチネスがカットし、右側にいたMFキム・ボギョンに預ける。
6月の親善試合で韓国代表にも選出された新加入の21歳に、ガンバのセンターバック内田達也、左サイドバック武井択也がひき付けられる。その間隙を縫うように、キムのさらに右側を右サイドバックの高橋大輔が駆け上がる。必死に間合いを詰めてくる武井をあざ笑うかのように、パスを受けた高橋はフリーの状態でガンバ陣内の「ある一点」に照準を絞っていた。
「シュートを打とうと、パスをもらった段階から決めていた。迷いはありませんでした」
サッカーにおけるセオリーでは、サイドを崩したこの場面ではクロスとなる。高橋の体勢を見ても、ゴールへの角度はほとんどなかった。再三の好守を見せてきたGK藤ヶ谷陽介を中心とするガンバ守備陣ばかりか、味方のセレッソ攻撃陣も高橋がクロスを送ると思っていたのだろう。
しかし、セオリーを超えた「意外性」が拮抗した状況を打ち破るのも、サッカーの醍醐味のひとつでもある。藤ヶ谷とゴール右ポストのわずかな間を狙って、高橋はアウトサイドに引っ掛けるように思い切り右足を振り抜いた。たとえゴールにならなくとも、こぼれダマを味方の誰かが押し込んでくれる。そうした信頼感も、迷いのない一撃を生み出していたのだろうか。
シュート回転がかかった痛烈な弾道が、鮮やかに反対側のサイドネットに突き刺さった。
何度も煮え湯を飲まされてきた敵地・万博競技場でのインタビュー。セレッソのレビー・クルピ監督から「ナイス・スピリット」と祝福された27歳のヒーローが言葉を弾ませる。
「ここまでの歴史の中で、大阪と言えばガンバ、という印象を覆すことができなかった。こうして舞台が整った中で、大阪にはセレッソもあるということを何としても見せたかった」
対戦成績で10勝3分け20敗とセレッソが大きく負け越した中で迎えた、ACLでは初めてとなる大阪ダービー。就任5年目となるクルピ監督は「勝てば歴史に残る決戦」と選手たちを鼓舞し続けた。
前日会見でガンバの西野朗監督に「セレッソとは歴史が違う。負けられない戦いを突破してきた自負がある」と勝利を宣言され、キックオフ前にはガンバサポーターに「セレッソは弱小チーム」と挑発ソングを合唱されても、「グラウンドで結果を出そう」と歩んできた道が正しいことを静かに説いた。
関西サッカー界は、セレッソの前身となるヤンマーディーゼルがけん引してきたと言っても決して過言ではない。1957年に創部され、1965年に始まった日本リーグでは8チームのひとつに名前を連ねた。不世出のストライカー釜本邦茂を擁した1970年代には黄金時代を迎えた。
日本リーグを制すること4度。天皇杯も3度制した名門には入部希望者が殺到し、まともな練習ができないとの理由から、1972年には二軍となるヤンマークラブが創設された。
ヤンマークラブは日本リーグ2部にまで昇格したが、会社側の都合で1979年限りで突然の廃部を告げられる。納得できない指導者や選手たちが松下電器産業サッカー部を立ち上げ、奈良県リーグ2部から再起を期したのが1980年。このチームがガンバの前身となった。
いわば関西の「本家本流」がヤンマーディーゼルで、松下電器は「亜流」だった。しかし、両者の立場は1991年2月に逆転する。10チームで旗揚げされたJリーグに後者はガンバ大阪に名称を変えて関西から唯一のチームとして名を連ね、前者はプロ化の波に完全に乗り遅れた。
日本ハムをはじめとする大企業の出資を得て、ヤンマーディーゼル改めセレッソ大阪としてJリーグ参戦を表明したのは1993年12月。Jリーグが3年目を迎えた1995年に念願の昇格を果たすもなかなか成績は安定せず、2001年、2006年と2度のJ2降格を経験してしまう。
一方のガンバは着実に力をつけ、2005年シーズンにJ1で初優勝。その3年後にはACLも制し、アジア代表として出場したクラブW杯では欧州王者マンチェスター・ユナイテッドと壮絶なゴール合戦を展開。3対5で敗れはしたものの、ガンバの名前を世界中に知らしめた。
セレッソのある関係者は「ダービーにおける歴史も、スカウト網も、育成組織も、すべてにおいてウチが二番手だった」と振り返る。強化と育成の二兎を追うミッションを託され、J2に甘んじていた2007年シーズン途中から自身2度目となる指揮を執ってきたクルピ監督は言う。
「ガンバに対抗するために、若さと技術を強調してチームを作り、ここまで結果を残してきた」
昨年7月にエースの香川真司がドルトムントに移籍しながら、J1再昇格1シーズン目で3位に食い込んだ成長の証と言えるだろう。快進撃の原動力になったMF家長昭博までもが昨オフにマジョルカへ移籍した影響からか、今シーズンのJ1では6試合を消化して5分け1敗と大苦戦が続いているが、初挑戦のACLでは若手が躍動。22歳の乾貴士と倉田秋、21歳の清武弘嗣のMFトリオらを中心にG組を2位で通過し、Jを飛び越えた大舞台でガンバとの「一発勝負」を実現させた。
ともに攻撃力に自信を持つライバル同士の激突。開始直後から試合を支配したのはアウェーのセレッソだったが、ガンバも19歳の宇佐美貴史や31歳のベテラン加地亮が強引にシュートを放ってペースを取り戻す。前半の残り15分はむしろガンバのやりたい放題だった。
後半開始とともにクルピ監督が勝負に出る。この夜は精彩を欠いていた乾と倉田を思い切って下げ、ボランチの中後雅喜と1メートル91の長身FW小松塁を投入。キムをボランチから右MFに配置転換し、高橋とのコンビで右サイドの支配力を一気に高める手を打ってきた。
再びセレッソのペースとなると、ガンバの西野朗監督もMF佐々木勇人を投入。相手の左サイドに何とか蓋をしたが、右サイドだけは塞ぎ切れない。延長戦を考慮して交代のカードを2枚温存し、FWアドリアーノやMF二川孝広をサイドに回して耐え忍んできたが、終了直前に決壊してしまった。
チェスにも似たさい配合戦を制した、58歳のブラジル人指揮官は感極まっていた。
「西野監督が10年近くの歳月をかけて作り上げてきた、ガンバの組織的なサッカーを打ち破るのは決して簡単なことではない。しかし、ひたむきに勝利にこだわったのが我々の方だった。みんなで勝利を分ち合った。生涯で忘れることのできない勝利になった」
試合終了の笛が鳴り響くと、サブの選手はもちろん、スーツ姿のベンチ外の選手やスタッフらが入り乱れてピッチの上に歓喜の輪をつくった。決戦に臨んだスタメンの平均年齢は約24歳。対照的に30歳代のベテランが大半を占めたガンバの西野監督は「セレッソの躍動感あるサッカーに対応できず、後半は一方的に主導権を握られた」と脱帽するしかなかった。
U‐22日本代表候補の清武は「いい経験でした、で済ませるのではなく、ここまできたら優勝したい」と息巻いた。もちろん、ガンバのACL最高位を意識しているのだろう。
万博競技場のスタンドにはドイツから帰国中の香川も駆けつけ、かつての仲間たちが達成した「ガンバ越え」に喜びを分かち合った。ホーム&アウェー方式に変わる準々決勝が行われるのは9月。勝って兜の緒を締めよとばかりに、クルピ監督は最後に力を込めた。
「さらに新しい歴史を刻んでいきたいが、その前にリーグ戦をしっかり戦わないと」
黄金郷と絶賛されるガンバの育成組織に対抗して整備を進めてきたセレッソ大阪U‐18からは、現時点で7人がトップに昇格している。それでも、背中を追い続けてきた永遠のライバルに一矢を報いた喜びに浸るのは一夜限り。J1での初勝利に向けて、戦士たちは26日からモードを切り替える。
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2011年5月25日 01:44|記事URL|コメント(0)|トラックバック(0)
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