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追悼。松田直樹さんが色紙にしたためた「読点」の意味  by 藤江直人


 松田直樹さんは「オレは」と書き記すと、しばしの沈黙の後、あえて「読点」を打った。
 2年前の暑い夏。横浜みなとみらいのマリノスタウン内に建つクラブハウスの2階で、当時横浜F・マリノスに所属していた松田さんにインタビュー取材を行ったことがある。
 ある雑誌の企画。テーマは「一流選手になるための7か条」で、松田さんは「オレなんか全然一流じゃないよ」と謙遜しながら、取材の最後に自身のサッカー人生を凝縮させた7か条をしたためた。
「サッカーでは表現できるんですけど、言葉にするのは難しいんですよね(笑)」
 真っ白な短冊状の色紙。最後の7つ目に「オレは、」とペンを走らせた時のエピソードだ。


 インタビューでは言葉のキャッチボールを繰り返しながら、松田さんのサッカー観を短い言葉に集約していった。時間が限られる中で、松田さんのテンションがどんどん上がってくる。
 取材直前の2009年7月4日の大宮アルディージャ戦で、J1史上16人目となる通算350試合出場を達成していた。この時、32歳。ベテランと呼ばれる年齢において、筆者が「これだけは負けないというか、絶対に譲れない一線はありますか」と聞いた直後だった。
「サッカー好き度、かな」
 子供のような無邪気な笑顔を浮かべた松田さんは、サッカーへの思いの丈を熱く語り出した。


 以下は当時の松田さんのインタビューを文字に起こしたものだ。
「オレ、サッカーが好きなんだよね、というヤツには負けたくないですね。ホントに一日中、サッカーのことしか考えていないし、サッカーが大好きで仕方ない。小さな頃からいろいろなスポーツをやてきたけど、サッカーって休みがないというか、順番待ちみたいなものがないから。野球もやっていたというか、はまった時期もありましたけど、自分が打席でホームランを打てなかったら、何イニングも待たなきゃいけないじゃないですか。オレは違うな、と思って。それに、いろいろな話を聞く度にサッカーというのは世界を動かせるスポーツだと思っているから」


 前橋育英高から横浜マリノス(当時)に入団した1995年のエピソード。シーズン開幕直後に18歳になったばかりの1977年3月生まれのディフェンダーは、マリノスの大黒柱にして、日本代表でも輝かしいキャリアを残していた井原正巳へ「追い抜く」と挑戦状を叩きつけて周囲を驚かせた。
 日本が28年ぶりに出場した1996年のアトランタ五輪。1次リーグ初戦で怪物ロナウドらを擁するブラジル代表の強力な攻撃陣に臆することなく真っ向から挑み、体を張ってはね返し続けて「マイアミの奇跡」の一翼を担った松田さんは、くだんのインタビューではこうも語っていた。
「日本魂という言い方は嫌なんですけど、日本がなめられるのはもっと嫌いですから」


 自他ともに認める負けず嫌い。とりわけ、大好きなサッカーで負けることは、松田さんの中で許されることではなかった。マイナス思考でキックオフを迎えたことは一度もないという。
 人一倍サッカーを愛する思いがストレートな言動となり、周囲といらずもがなの軋轢を招いたことも少なくない。日本代表のキャップは、2005年1月29日のカザフスタン戦で40個目を獲得したままで途切れている。28歳になる直前の、心技体がもっとも充実していた時期。レギュラー選手がほぼ固定され、競争の場すら与えられないサブ組の思いを代弁する形で当時のジーコ監督と衝突したことを伝え聞いたのは、代表落ちからしばらくが経ってからだった。


 もっとも、松田さんの中で日本代表への憧憬の思いが消え去っていたわけではない。
 インタビューした2009年には、マリノスで連覇を達成した時の監督で、恩師として慕ってもいた岡田武史監督に率いられた日本代表への復帰を究極の目標として据えていた。
 フィリップ・トルシエ監督が掲げたフラット3の一角で、強靭なフィジカルを武器にベルギー、ロシア、チュニジア、トルコの猛者たちと対峙した2002年のW杯日韓共催大会。松田さんは自身が放ち続けた強烈な存在感を「あの時は勢いというか、体力的な部分で言えば20歳代が一番いいのかもしれないけど」と決してピークではなかったと位置付けてもいた。


 再び松田さんのインタビューを文字に起こしたものを記す。
「精神的な部分だったり、頭というか、サッカーに対する考え方という部分では30歳を超えてからの方が、ね。むしろ、30歳を超えちゃったからもうちょっと、という扱いに反発心を抱くというか、やっぱり嫌ですよね。オレなんて、まだまだ全然サッカーを極めていないし。30歳を超えて筋肉の張り方や疲れの残り具合などもいろいろと変わってきた中で、カズさんやゴンさんがプレーしていることはあらためてすごいことだと思う。あの2人はホントに尊敬している。ああいう人たちがいれば、もっともっとオレも頑張らないといけない、と思いますからね」


 16年間在籍したマリノスからまさかの戦力外を告げられ、失意の中で迎えた昨シーズンの最終戦後。日産スタジアムのピッチでサポーターに挨拶した松田さんは、あふれる涙をはばかることなく「オレ、サッカーが大好きだから。もう少し続けさせてください」と現役続行を宣言した。
「楽しくて仕方のないサッカーを仕事にしているオレは究極の幸せ者。これからも持ち前の熱いプレーを通じて、サッカーの素晴らしさを伝えていきます。ホントに面白いんだよ、と」
 インタビューの最後にサッカーが「好き、好き、ホントに好き」と3度も繰り返していた松田さんが選んだのはJ1でもJ2でもなく、その下のJFLに所属する松本山雅FCだった。


 テレビのドキュメンタリー番組でも明かしていたように、年俸などの条件面だけで考えれば、興味を示していた金満なカタールのクラブへ移籍するのがベストの選択肢だった。
 しかし、将来のJリーグ参入を目指して2005年に発足したクラブは、大月弘士社長以下、クラブ、サポーター、地域が一体となって松田さんへ熱いラブコールを送っていた。
 マリノスと日本代表で培ってきた豊富な経験を伝えるには、すべてにおいてまだ若く、成長途上の松本山雅FCは打ってつけの舞台だったはずだ。地域リーグからの昇格元年だった昨シーズンのJFLで7位に低迷したことも、松田さんの負けず嫌いにメラメラと燃えさかる炎を灯したのだろう。


 だからこそ、早すぎる。あまりに酷すぎる。まだまだやるべきことがあったはずなのに。2位と勝ち点わずか4差の9位から、後半戦でどんどん巻き返していくはずだったのに。
 急性心筋梗塞で練習中に倒れてから2日。搬送された信州大学付属病院で負けじ魂を振り絞って闘っていたが、8月4日午後1時6分、道半ばで松田さんは力尽きてしまった。
 2年前のインタビューをふと思い出し、音声を文字に起こしたファイルをパソコンのフォルダから引っ張り出した。やや自虐的に「オレ、言葉が足りないんですよ」と不器用さを認めていた松田さんだったが、綴る文字数が限られた短冊にあえて打った「読点」の意味が今、はっきりと伝わってくる。


 冒頭の続き。松田さんは「オレは、」と記した後に、力強い文字でこう綴っている。
「サッカーが大好きだ」
 きっと「読点」のところで深く息を吸って、すべてのサッカーファンに届くように、あらん限りの大声で「サッカーが好きだ」と叫びたかったのだろう。筆者が「読点はない方が」と聞くと笑顔で首を横に振り、「最後に『!』を加えましょうか」と聞くと真顔で却下された。松田さんにとってもっとも重要で本質的な部分。余計な修飾の類を使いたくなかったのだろう、と今では思っている。
 インタビューはどんどんノリノリになる松田さんの強烈なエネルギーに圧倒されながら、こちらも必死で言葉の洪水を受け止め、ボールを投げ返し続けて7か条を探り当てた。


 その最後のひとつを大事に抱えたまま、松田さんは34歳という若さで天に旅立った。信州大学付属病院に駆けつけたマリノス時代の盟友、MF中村俊輔はこう声を震わせていた。
「天国で見守ってくれると思う」
 永遠のサッカー少年は、きっと見守るだけじゃない。プロとは名ばかりのプレーでファンを失望させれば、生前のように容赦なくカミナリを落とすだろう。サッカーの素晴らしさを伝える側の私たちメディアに対しても、優しくて、温かくて、時に厳しい視線を雲の上から向けるはずだ。
 言葉は足りなかったかもしれないが、それを補って余りある松田さんの真っすぐな生き様、熱き魂、そして大きく、頼れる存在感を私たちは絶対に忘れない。合掌。 

2011年8月 5日 00:43|記事URLコメント(2)トラックバック(0)

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コメント(2)

未だに信じられないです。
字は違いますが、自分も「直貴(なおき)」なんで、昔から親近感があり、高校時代から松田直樹選手を見てきました。

何年か前に等々力で観たナビスコカップの川崎VS横浜Fマリノス戦。横浜のGKが退場になり、交代枠も使い切っていたため誰かがGKをやらないといけなくなった時、誰よりも真っ先に手をあげてGKを引き受け、GKグローブをはめながらゴールに走るシーンを思い出しました。GKをやってもこれまでと変わらずにチームメイトを鼓舞していました。
終盤、川崎に駄目押し点を決められ、もの凄く悔しがっていたのが印象的でした。

サッカー選手の試合中、練習中の死は、他のスポーツに比べて多い気がします。今後、松田選手の死を無駄にしないためにも継続した医学調査、各クラブでの定期的な身体検査、しっかり続けてほしいです。

最後に、松田直樹選手、ありがとう。


なおき様

 いつもコメントありがとうございます。松田さんが急造GKを務めた4年前のナビスコカップは、私も覚えています。すでに交代枠を使い切っていた後にGK榎本哲也が退場になると、オレがやらずして誰がやる、というオーラを放ちながら準備をしていましたね。夕方のテレビのニュースで、榎本が泣きながら松田さんの思い出を語っていました。
 一度取材をすれば、メディアはみんな松田さんのファンになる。こうした話をよく聞いてきましたが、2年前のインタビューを機に私もその一人になりました。不器用だけどストレートに響いてくる熱い思い、飾らない人柄、周囲を思いやる優しい心。まぎれもなく永遠のサッカー少年でした。
 今回の悲しみを受けて、JFLでもAEDの携帯を検討しはじめているようです。同じようなことが二度と起こらないように。私たちメディアを含めた、サッカー界を取り巻くすべての人間が考えていかないといけません。そうしないと、闘い続けた日々を終え、天国でようやく安らかな眠りについた松田さんが起きてしまいます。オイ、コラッ! まだ何もしていないのか、と。

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