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追悼のピッチから発信された松田直樹さんの熱き魂(2) by 藤江直人

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(1)から続く
Jリーグ史上で最大のやんちゃ坊主。自らをこう呼んではばからなかった松田さんを偲ぶように、終了後の取材エリアとなるミックスゾーンでは故人への思い出話が絶えなかった。
松田さんがプロ入りした1995年当時のマリノスおよび日本代表の大黒柱だった井原正巳さん(柏レイソルヘッドコーチ)は、オフにまつわるエピソードを明かしてくれた。
マリノスは1995年のファーストステージを制し、宿敵だったヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)との決戦を制して初の年間チャンピオンの座を獲得。チームから与えられた40日間のオフが明けて、始動のために集合した松田さんの体型を見て井原さんは呆然としたという。
「ホントにブクブクでね。安永と2人で、何もやっていなかったと言っていましたから」
生前の松田さんも、当時の振る舞いを「プロとして失格」と深く反省していた。
「オフはオフでしょう、みたいな感じでね。35日間くらい遊びまくって、残りの5日もただテニスをやるくらいで。それで筋肉が落ちて脂肪が増えて。あれは酷かったですね。腹はメタボですよ。練習にしても、いかに開始時間ぎりぎりに来るかが勝負でしたから。最低ですよね」
エピソードには続編がある。ちょうど1年後のことだ。井原さんが続ける。
「今年は走ってきましたと。箱根駅伝を見て感動して、必死に走ってきましたと。そうしたら、足を疲労骨折していた(笑)。固いアスファルトの上を一生懸命走ったんでしょうね。アイツらしいといえば、アイツらしい。マツは本当にスケールの大きな選手だった」
井原さんは、自他ともに認める負けず嫌いだった松田さんの最初の標的にもされた。入団当初から松田さんは10歳年上の井原さんに対して「追い抜きます」とまったく臆することなく挑戦状を叩きつけ、周囲をヒヤヒヤさせている。松田さんはその意図をこう語っていた。
「高校生の時から井原さんは尊敬する存在でしたし、今でもそうなんですけど、プロになった以上は同じ立場だし、年齢は関係ないと思っていたので。何が他の人より優れた才能かと聞かれたら、小さな頃から負けず嫌いというところでは絶対に負けない、とずっと思ってきたので」
1999年のオフに突然の戦力外通告を受けて、ジュビロ磐田に移籍した井原さんは「マリノスでもいつの間にか僕を追い越していった」と懐かしそうに振り返っていた。
フィリップ・トルシエ監督のもと、フラット3と呼ばれた最終ラインで何度も戦いをともにした宮本恒靖さんは、松田さんの2度にわたる日本代表離脱を目の当たりにしている。
最初は1999年9月。シドニー五輪出場を目指したU‐22代表が遠征した韓国から突然帰国した。次は2005年3月。ジーコ監督のもと、W杯ドイツ大会出場をかけて戦っていたバーレーンとのアジア最終予選でベンチ外を告げられた松田さんはそのまま帰宅してしまった。
「韓国の時は話し合ったと聞いていますけど、ジーコの時は試合が終わったらいなかった」
理由は単純明快。試合で起用されないことに対して納得がいかず、ならばマリノスに帰ると。一回目の時は井原さんも「代表はそういう場所じゃないだろう」と叱責したという。
2度目の離脱の際はジーコ監督の逆鱗に触れ、2006年のW杯ドイツ大会を含めて、同監督の在任期間中は二度と日本代表に招集されなかった遠因にもなっている。
長く日本代表の中盤を担った名波浩さんをして「1対1の強さはずば抜けていた。こういうヤツが世界に出ていくと思った。レジェンドな存在」と言わしめる稀有な才能を持ちながら、代表キャップ数が40で留まったままとなっていることに、しかし、松田さんは反省はしても決して後悔はしていなかった。
宮本さんは故人の真意を汲み取りながら、後輩たちへのメッセージに変えている。
「自分たちで考えて行動することを大切にしてほしい。指示を待つのではなく、自分たちから動いてほしい。発言や行動には責任が生まれるし、マツもそういう選手だったと思う」
思いの丈をストレートに伝える。それが原因でどんな確執が生まれようと、その後の自らの行動で責任を取る。熱い生き様を貫いた松田さんは、実は現状に首を傾げてもいた。
「実際のところオレが責任を取れたかどうか分からないですけど、オレは自分で言ってきたことに何でも責任を取るつもりでしたから。悪さというか、いまの若いヤツは自分で責任が取れないからやんちゃもできないと思うんですよ。とりあえず影に隠れて淡々とこなしていけばいい、というのはすごく感じるんですよね。それが今まの若いヤツの生き方と言われればオレは何とも言えないですけど、オレは淡々とするのが大嫌いですから。せっかくサッカーをやるんだから淡々としているよりは何かしたい、暴れるのならばサッカーで暴れたいと思っています」
今となっては、松田さんが後輩たちに託した最後のメッセージに聞こえてならない。
日本代表の中で特異な立ち位置を築いていた中田英寿さんに対しても、松田さんは何ら遠慮することなく本音をぶつけた。中田さんは試合後に独特の表現で故人を偲んでいる。
「14歳で出会ってから最後まで彼との関係、距離感は変わらなかった。彼ははっきりとモノを言う性格だし、表裏のない人間だった。それが僕にとっては心地よかった」
成長するために松田さんと一緒にプレーすることを望み、2002年に東京ヴェルディからマリノスに移籍。ドイツ、南アフリカと2度のW杯のピッチに立ったDF中澤佑二もこう続けた。
「マツさんは誰彼かまわず直球勝負の人だった。直球で投げてくるし、直球で返しても大丈夫な器の大きな人だった。やんちゃの印象もあるけど、それはサッカーへの強い思いがあるから」
誰もが松田さんの生き様に共感し、その熱さに魂を刺激されたからこそ総勢86人もの現役JリーガーやOBが集い、震えるような寒さの中で4万人を超えるファンが駆けつけたのだろう。
追悼メモリアルゲームの開催に対して、安永さんは「サッカーを通じて直樹の精神を感じてくれたらうれしい」と趣旨を謳っていた。決してセンチメンタルなセレモニーにするのではない。志半ばで旅立った故人の思いを次の世代に受け継がせたい。安永さんが力を込める。
「素直に思いを伝えるのは、誰でも恥ずかしいし、躊躇すると思うけど、やっぱり伝えることは必要なんです。直樹の場合は思いの伝え方、伝える相手、伝える場所が間違っていることが多かったけど、あの素直さは正直、うらやましいと思った。オレには言えませんからね(笑)」
今になって安永さんが後悔していることがひとつだけある。
「直樹からは何度も『オレはヤスと一緒にいる時が一番楽しい』と言われているんですけど、実はオレは言っていないんですよ。一度でいいから言ってあげればよかった」
言おうとしても、面と向かうと照れがあった。追悼メモリアルゲームの開催に安永さんを突き動かしたのも、松田さんと一緒にいることの楽しさを伝えたかったからかもしれない。だからこそ、故人の熱き思いを伝えるためにも一度だけのイベントで終わらせるつもりはない。
8月4日の松田さんの一周忌の前後で、会場を長野県松本市内に移して同様のメモリアルゲームを開催する構想が、現在、松本山雅FCの大月弘士社長との間で話し合われている。
安永さんはミックスゾーンで何度も「キズナ」という言葉を口にした。
「発起人といっても、オレは何もやっていない。みんなの協力があったからこそ。キズナを感じられた最高の一日でした。直樹ならどうするかを考えながら、これからもやっていきたい」
サッカーというスポーツがもつ「チカラ」をもあらためて実感させられた2012年1月22日。サッカーを一途に、不器用に、愚直に愛し続けた松田さんの遺志をここに再現したい。
「サッカーって世界を動かせると思っているから。それくらいサッカーはすごいスポーツというのをホントにみんなに伝えたい。ホントに面白いんだと。好き、好き、ホントに好きですね」
取材ノートから松田さんの言葉を捜しながら、ゆずの『逢いたい』の一節に再び目頭が熱くなる。
泣いたり 笑ったり 共に歩んだ 足跡 永遠(とわ)に 消えはしないさ
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2012年1月23日 17:30|記事URL|コメント(0)|トラックバック(0)
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